川崎廣進・工房カワサキの世界

〜The World Of Koushin Kawasaki & Koubou Kawasaki〜

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ヒマラヤトレッキングの思い出(その6)    2007年05月28日

そぼ降る雨の中合流し30分くらいで第4キャンプに着いた。下をむいて歩いていたら今しがた出逢ったあの思いがけない親切を思うたびに胸を熱くした。時折目頭までも雨と一緒に濡れた。あの私の体を温めてくれた囲炉裏の間はきっと家族3人が焚き火を囲んでの団欒の間であるはずだ。

ガランとした6畳くらいの間に何十年も使い古した小鍋が2つ土壁に掛けてあり片隅に小物が少し置いてあった。隣はミューの小屋になっており縦格子の桟で仕切りガラスの無い窓を作ってあった。覗いてみたら先ほどのミューが休んでいた。その隣りが家族の寝室のようだ。一番奥には牛小屋があり白い牛が1匹いた。外にはきゃしゃな石で4段の階段を作り2階には6畳間くらいの部屋が一つあった。

我々文明国家の生活は1生の生活をするのに多くの物を小さな家に詰め込んである、と自分の生活を振り返ってみた。僅か30分歩いているうち多くの疑問にぶちあたった。周りは雨もやんで明るさが戻ってきた。

ミスタービピンがもうとっくに着いてゆとりでいた。きっとこの雨にも会わなかったろう。私は今日山道で出逢ったことを、こと細かに話した。「私は来年又此処に来てあの家にもう一度伺いたい。何も御礼が出来なく心苦しくこのまま永遠のお別れは出来ない」と言った。ビピンは「来年はコースが違うよ」と言った。私はどうかして此処にもう一度来る事を考えていた。

目の前に一人の青年が寄ってきた。私は見たことあるが思い出せずにたじろいだ。そのとき思い出した。先ほどお世話になった青年だ。「私が無事に着いたか心配してきた来た」と言っていた。どうして此処が分かったんだろう、横にいるビピンに通訳頼んだ。ビピンは流暢な英語で話していた。あんなに彼の家で話した時はほとんどが通じずヒンデー語しか喋らないんだ、と思っていた。私の言葉の貧困さがつくづく分かった。

さっきのお礼を述べ「申し訳ないが今晩私を部屋の片隅に泊めてもらえないか?」「寝袋も持っているし食事も要らないので生活のお邪魔にならないようにするので」そして「せめての御礼にお母さん始め皆さんの絵を描かして貰えないか?」と頼んだら快く承諾してくれた。

さっそくリュックと寝袋を持った。彼は寝袋は必要無いと言ったが担いで夜食も断った。でかけにビピンは彼に「明朝7時の食事には帰らないと個人行動は問題があったとき私は困りますので、そしてこの事はリーダーには言いません」といったら彼は頭を下げてうなずいた。私は「その通りだ」と思った。今迄1年間OKする時や承諾は頭を振り子の様に横に振るのがインドの慣わしのように思っていた。

彼は私のリュックを持ってあげるといってかついでくれた。のぼりの道を2人は急いだ。日は沈みかけていたが時々振り向いて私を見届けていた。草むらの狭い山道やよその家の軒先を通って近道をしている様子だった。日が沈み残照の中家路を急いだ。彼は足元に気をつけるようにと何度も振り返った。暗くなって着くなり又家族に私が再び来た事を説明していた。直ぐに2階を案内され身支度を解いた。

2階も簡素に出来ていて床も壁もが土で出来素人が手でこすったような跡が残っていて「この家は全部自分で作った」と自慢げに言っていた。壁にはヒンズー教の神様の写真が3枚張ってあり天井から穀物の袋が2個ぶら下がってベットと昔の木で作ったやなぎごうりのような横長の箱があった。私に「このベッドで寝てほしい」と言われた。寝袋を持っているので断ったが、ドングロスで作った毛布をだしてこれで寝るように言われた。最後には親切に甘えた。

私は「皆さんを今晩描くか?、それとも明日朝皆さん何時に起きるか?」を聞いたら「5時半と言った」。小さなランプのような明かりが1つあった。屋根に40センチ四方のソーラーパネルが1つ乗っていたのを昼間来た時に見た。あれだと2時間くらいしか持たないだろうと思った。

さっそくお母さんが入ってきた。昼間見たときと何も変わりなくグリーン色のスカーフで頬かむりをしていて、絵を描かれるといっても何も変わらず素顔の年老いたその女性の顔は気取る事も飾る事も無く落ち着いていた。絵はそんなに興味はなさそうだった。次男も来たので手早く4人を描いた。若い奥さんは来春子供が生まれると言っていた。

途中ドウサとチャイとヨーグルトをいただいた。ヨーグルトは何時もの味とだいぶ違い口の中に流し込んだ。描いてる途中お腹がゴロゴロ鳴っていた。トイレはどこか?と聞き彼は恥ずかしそうに懐中電灯を持ってきて昼間歩いてきた暗い草道を照らして歩いていった。私はもう分かりましたと言って大きな木の下にしゃがりこんだ。『明日皆さんと同じように起きたいのでもし起きなかったら起こしていただけませんか?』と聞いたら彼はうなずいた。

入り口の扉は隙間が大きく開いていたがとても土壁の家は暖かだった。低くしゃがんで入る入口に2度も頭を打った。

朝6時に起こされ暖かなチャイを頂きさっそく家の外に飛び出し絵を描いた。下に見える段々畑に麦やジャガイモが植えてあり、お母さんに「これ皆お母さんの田圃か?」と聞いたら「そうだよ」と首を上下して得意満面に答えてくれた。外で2匹のミューが餌袋に顔を突っ込んで食べていた。

皆のその顔には生活に対する不満や不憫や文化生活に羨望する様子などかけらも見受けられず、むしろこの山岳で生まれ育ち、田畑を耕し、穀物を植え、収穫を喜び、ミューや牛をまるで自分の体の一部のように大切に使い、生活している姿は無理せず、あせらず、このヒマラヤの悠久の中に営々と生きつづけていた。それはとりもなおさず運命や宿命といった自分以外の自然の力に何疑うことなく信じきって、身をゆだねて生きていくすべを、我々よりよほど賢く察して生きているようにも見えた。

このインドの山の奥地で質素で簡素に生きつづける人々はまるでシンプルライフのお手本のようだ。老若男女の親愛がこもった笑顔や深いシワの中に人を疑う事を知らず困っている人には最大の心を差し上げその安らかな表情は一抹の苦悩も見えなかった。このような所でもいつかは文明の波が押し寄せすべてを一網打尽に変える時がくるかと思うと私の気持ちが重くなった。

7時も近くなり「そろそろキャンプに帰りたい」といって挨拶しお礼を言ってお母さんと別れた。名残惜しんでいる様子が言葉以外から伺え、しっかり手を握りしめて合掌した。キャンプに着くなり「お礼のしるしに」といってお金をポケットに入れようとしたが取ってくれなかった。ミスタービピンと話し込んでるとき私は「せめて朝食とチャイを持って来るので食べてください」と言ったが「仕事が待ってるから」と言って去ろうとしたが「それでは住所を知らせてください」と言って書いてもらった。

皆元気に変わることなく第4キャンプを9時に出発した。最後の今日は車道を歩くといっていた。疲れた人はジープが来るので乗ってベースキャンプまでいけると説明があった。車道は長く15キロくらいの歩行になる様子だった。私は最後の日も一人で歩きたかった。

1時間後に今日も雨にあった。ちょうどそこに2軒並んで3坪くらいの小さな店があった。先を歩いていた子供たちもお菓子を買って雨宿りしていた。私はバナナ3本とビスケット1個買って雨宿っていたら雨が上がってきた。皆出発したが私は店の片隅に座って外の風景を描いていた。今日は道もよくのんびり歩いていくつもりでいた。

右側には険しくダイナマイトで割った刃物のように尖った岩肌や、雑草が生い茂った豊かな土には多くの樹木も植わっていた。左側はすべて崖で直角に切れて恐る恐る覗くと背筋がゾッとする様な絶壁になっている所もあった。長い道のりを今朝別れてきたあの予期せぬ親切を金科玉条の様に胸にしまっておいた思い出を、紐解きながら自分の人生に重ねてみながら歩いていた。子供たちも私と一緒に歩いて楽しんだ。

道端には立派なわらびも沢山あった。私と歩き出した子供達に「これは日本では春から夏に向けて山に行ってわざわざ採りに行ってまで食べるんだよ」、そして道で拾ったビニール袋を見せて「こんな物をこの美しい自然の中に捨てたらダメだよ」ともいったら子供達は興味深く理解して私の顔を見ていた。この子たちが大きくなった頃にはインドはきっと美しい国になるに違いないと思った。

山を下り低くなるにつれ針葉樹林が多くなってきた。立派な松やヒマラヤスギや樅の木も多く自生したところがあった。途中ジープが山から下ってきて私の横で止まり「ミスターカワサキこれに乗ったら」と言われたが、「私は歩いて降りる」と言って断った。10人くらい乗っていたジープは砂埃をたてて立ち去っていった。

先を見ると中腹には一本の細い道が山のうねりに沿って横に線を引いたように見え、トレッカーが歩いている様子が豆粒のように小さく見える所も何ヶ所もあった。日本の歌を唄いながら10本ほど取ったワラビを右手に持って歩いていたらいつの間にかベースキャンプに着いた。4時ごろはまだまだ明るく市井の人々は1週間ぶりに帰った我々を夕日に照らされてまぶしそうな日焼けした顔で迎えてくれていた。



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