川崎廣進・工房カワサキの世界

〜The World Of Koushin Kawasaki & Koubou Kawasaki〜

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差別と区別    2008年09月16日

インドに住みだして何度かカースト制について疑問を持った。階級社会が確立して何十段階もあるカースト制の裾野に生きている社会集団は生まれながらにして定められた運命の元でしか生きられないことを悟っている。今ワーカーと言われる人達と一緒に建設に関わっているが、ここでは彼たちと協力関係を結ぶことは避けて通れない無言のおきての様なものである。ただ作業をする人達は現地語(ここではテルグ語)しか話さないことの不自由さも難問題だ。

毎日の作業に当たって何時も同じことが話題になる。周りを綺麗にして作業にかかって欲しいと伝えても「分かった」とうなずいて返事をしながら汚して帰っていく。翌日注意をしょうと思っても勝手に休む。何かにつけて仕事をtomorrowと言って明日に持ち越す。私は煮えくる気持ちを抑えて通訳にその真意を問う。しかし彼は「ここはインド、働いている人もインド人だ」と、なかば贔屓目の回答に終始する。そんなやり取りにいささか疲れるが、やはりここはインドである。

私がいくら解り易く絵を描いて見せても、真剣に見ようともせず、インド流に事を進めてしまう。そんな時はつい差別的な考えで彼らを見、罵倒するような荒々しい口調になり、逆に嘲笑の的になってみじめな思いに駆られる事しばしばである。私は外国人として常に優位性を持って彼らに接しているところに、この様な神経を逆撫でする様な関係が生まれるのだろうか?忍耐強く構えていてもいきどおりをおぼえることが多すぎる。

ここではワーカーと言われる人達は基本的に肉体労働者として軽視されている傾向がある。それは私にとって差別以外のなにものでもない。確かに私も仕事の面では腹立たしいことしきりではあるが何時も議論になることはワーカーとは働く人全般を言うのでは?と反論が口を突いて出てくるのである。ソフトウエアーに携わる人は世界水準並みの報酬とエリートとしてインドの顔になり、同じワーカでも、手職を身につけた労働者はなぜ世間はさげすんだ見方をするんだ。

しかし答えはかえってこなかったが「それは差別ではない」というのは一般的考えだ。その根拠にはカースト制という、もって生まれた運命のように比較、競争社会とは逸脱した思想が存在しているのではないだろうか。一緒に仕事をしていると彼たちも甘んじてその世界に不満も持たず、その日その日を生きている姿はなんとも歯切れが悪い。私は「日本は建築も造園も芸術家もスポーツ選手もあらゆる分野も大学もあり、社会に出たら平等の扱いだよ」と反発した。

インドの大学教育の主な柱は、すべて経済中心の国家を目指し、世界中のI T関連に携わる人材育成教育は、かたよりもはなはだしく思った。「世界中のIT企業はすべてインド人が支配しょうとしているのでしょうか」とインド政府に質問を投げかけたくなるが、結論は「異論は無いが今からのインドはバイオも含めて多岐にわたった発展を期す、その上で建設業労働者は差別しているのではなく区別しながら明日の発展につなげている」と政府は弁明するのではないだろうか?



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