川崎廣進・工房カワサキの世界

〜The World Of Koushin Kawasaki & Koubou Kawasaki〜

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ヒマラヤトレッキングの思い出(その4)    2007年05月23日

5月6日第2キャンプは爽やかな朝を迎えた。

昨日の事が嘘のように回復したのでさっそく外に出て顔を洗っていたら、ミスタービピンが来て『川崎さんあそこに羊が一杯いるよ、絵を描いても面白いよ』と言って指差した。早速行ってみたら周辺は一面真っ白に見えて羊達はまだ寝ていた。周りに羊飼いが羊とヤギを300頭くらい連れてテントを張って泊っていた。木の枝やテントの上には洗濯物が干してあり生活の匂いを感じた。

斜面まで羊達が占領していて賢そうな犬が2匹、4・5人の羊飼いの横でおとなしく座っていた。みな焚き火をしながら火を囲んで朝食をとっていた。そばにいって話をしたいが言葉が出来ないので両手を合わせてナマステーといった。彼達は私を見て「どこの国の人か?」と聞いたようだった。私はジャパンと言った。彼達は私を見ながら何か喋っていた。その笑顔には親愛の表情がうかがえた。

焚き火の横を見ると籠には10個ほど大小のジャガイモが入っており火の中に入れて焼いてチャイと一緒に食事をしていた。ヒマラヤはトラが出るので犬はその番に使っているようだ。焚き火の煙は早朝の周りの山肌に細く空に向かって溶けるように蛇行して広がっていた。山の煙って昔歌ったのを思い出した。

食事を済ましてみんな元気に出発した。ミューはまだのんびりと草をはんでいた。わたしは今日は後発でスタートした。700メートル登りの8キロ歩行である。

今日は昨日より上りは少ないが一番きつい坂だと言うリーダーの説明があり60度ぐらい急坂の天辺の尾根を指差していた。皆「ウワー」と言って天を仰いでいた。酸素が薄くなってきたら又昨日のように息苦しくなるので自分流の息の仕方を試してみた。私は2回息を吸って2回で吐き出していく方法をとった。これは若い頃マラソンの息の仕方を教えてもらった記憶があった。

最後にスタートしてあせらず、無理せず歩調を整えて歩いた。1キロも登らないうちに2・3人がひどそうに呼吸を荒げていた。私は昨日のお返しに、もし調子よければ助け側にまわろうと考えて最後に出発した。座り込んだ人たちに木の枝を折って杖を作ってあげたり、リュックや水筒を持ってあげたり手を引っ張ってあげたりしながら少しずつ登った。細い道には石ころや枯れ枝が到る所に歩行を妨げていた。

今日は出発するなり石楠花林が多く日陰はまだ蕾でも日の当たるところは美しく開花していて真っ赤に山を染めていた。その枝ぶりは針葉樹のように真っすぐに行儀よく伸びずグネグネ曲がりくねっていて樹林は蜘蛛の巣のように人の通るのをふさいでいるようだった。

山の人たちはその枯れ枝や生枝をたきぎにしていた。蛇行しながら登っていくその道はどこまでも石ころだらけで疲れを倍に加速していた。わたしは体調もよく休んでいる人たちに合わせて歩いた。確かに昨日よりきつい登りに座り込む人が増えてきた。私は手を引きながら息の仕方を教えてみた。しかし少し登って多く休んで中々前に進まなかった。頭に昨日の自分を思い出していた。

半分ぐらいの所から針葉樹林が出てきた。老衰か雷か分からないが山肌にあちこち倒れていた。時々今に裂けたように葉っぱがまだ新しい倒木もいくらか在った。きっと昨夜の大きく鳴り響いていた雷がいましがた此処に落ちたようだった。その裂け目は40度くらいに刃物で切ったように美しく裂けていた。これも自然界の掟か?

厳しい坂道を休みながら登っていくメンバーだけで一つの固まりが出来、私はその中に入っていた。石ころを踏み外して下に落とすと下を歩いている人に当たるので足元に細心の注意が必要だが幸い我々は最後部だった。リーダーの話では登りきってしまったらあと半分は平坦な坂道ばかりが4キロ位続くようだ。早く平坦なところに行きたいな〜と思いながらあせらずに先を考えず歩いた。

一番きわどい所は一人を引っ張り上げては又戻って次の人を引っ張って、と私は上がったり下りたりしたところもあった。皆疲労困憊の様子だった。周りには立派なヒマラヤスギが林立して静かな森を造り私達人間の悪戦苦闘している不慣れな山の様子をじっと静観している様だった。高さ30メートルも40メートルもあるような大木樹林の隙間に真夏の深そうな青空と入道雲が広がっていた。その天井から見下ろすと人間の存在など虫けらのように見えるだろう。

今日の私はどこまでも快調だった。周りの青空の中に白く雪をかぶったヒマラヤ連峰を眺めたり、木々の間の草花が木漏れ日を受けて咲きほころんでいるのが観察できた。酸素不足などの事なんか忘れるくらい元気に飛び回った。心の中で昨日沢山の人に励ましてもらったり心を癒してもらったりしたお返しはこの日しかできないと思っていた。

第3キャンプに着くとあとは下って帰るコースになることは聞いている。スケッチしようと道具を持って来たが登りのきついところが終われば自分の時間も作れるだろう。もう直ぐに頂上が近いはずだ。頭の中で平坦な坂道を思い浮かべた。

出発してかれこれ4時間以上もたった頃、とたんに道が開けて坂が緩やかになった。ああ〜頂上に来たとぞと安堵し皆の顔も緩んで見えた。酸素不足で皆の息がまだ荒げているのが見えたが顔には青空を眺めるゆとりが読み取れた。空が開けて付近には常緑広葉樹も沢山あった。

尾根の空気はいくらか冷たく感じた。登山家が尾根伝いに進行するとはこんなことなんだ、満足げに初めて登山家のような気持ちになって尾根の空気を腹一杯に吸って歩いた。危険を冒してまで山を愛する人達の気持ちが少しではあるが伝わってきた。ファンでもあった新田次郎の山岳の本を何冊も読んだことが思い浮かんできた。

平坦といえ途中にへたり込んでる人も何人かいた。私は快調といっても皆を置いて先を急ぐわけにも行かなかった。ならばと思って所々で腰を下ろして絵を描き始めた。

途中7歳の子も泣いていた。私は後ろ向きにしゃがんでおんぶしなさいと言ったがしなかった。少しずつ雲行きがおかしくなり雷が鳴り始めたので早足で歩きたかったが我慢した。先頭はもう第3キャンプ近くまで行ってるだろう、もし雨が降る頃は着いてるに違いない。しかし私は1人だけ外国人だ。日本の印象を最大限に良くしとこうと心に誓っていた。この沢山の子供達が大人になった時一緒に旅した事を思い出すことがあるだろうと思った。

雷の音が次第に大きくなってきた。着替えはもう1回分しか残っていないので今日は体を濡らしたくなかった。4キロと言っても山の長い道のりは空模様が気になり心が落ち着かなかった。所々写真を撮っていたらデジカメの電池が切れた。これで2つ目が終わってあとは絵を描くしかなかった。

ベースキャンプまで電気が無いと聞いていた。曇り空といっても時々日が差す時もあった。尾根伝いでも左右のすそまで青々とした芝生のようでまるでゴルフ場を歩いているような所も何か所もあった。森林や芝生やと変化する風景を楽しみながらスケッチしていたら雨が落ちてきた。今日も濡れるか?皆と一緒に行動しなければいけない。

次第に雨足が強くなりあられに変わってきた。手を出しておれないくらいに寒くなってきた。皆雨具をかぶり頭からすっぽりかぶる帽子に身を包んで手袋をしていた。私は薄いアノラックの上だけは腰にくくっていたがズボンはミューに預けて頭巾や手袋は持っていなかった。

道のりがゆるくなっても空気のせいかほとんどの人は辛そうで這うように歩いていた。少し登りのきついところは手を持ってあげたがみんな手をポケットに入れたいと私から手を離した。私も首筋から冷たい雨が入ってきた。ヒマラヤを甘く見た事を後悔しても遅かった。耳や手はちぎれる位に痛かった。

雷は今にも落ちそうな大きな音と共に何度もヒマラヤの空に稲妻と共に鳴り響いていた。一度だけ「シュッ」という音と共にまるで地を揺るがすような太い地響きがした。私の足元にでも落ちたような振動だった。ヒマラヤの山々には神様やら赤や黒鬼が棲んでいるんだ。

横殴りの雨は少しではあるが緩んできた。行けども行けどもキャンプは遠かった。途中太い倒木が横たわっていてよく見るとあの雷でいまし方倒れた様子だった。その裂け目にはまだ青さが残って生木の香りが漂っていた。

雨はやみキャンプの係員が皆の安否を気遣って戻ってきた。私達は濡れながらも亀が歩くようにのッそのッそと歩いていた。あと2キロと言われた時も倍は歩いたような気がした。

迎えが来たので私は歩を速め目的地を急いだ。見えてきたそのテントは山裾にあった。先を進んでいた人も足が動かないといって手を持ってあげて降りた。最後の一行は30分後に着いた。無事事なきを終え濡れた体を着替えして癒した。ランチは冷たくなり食欲も湧かなかった。

明日は一日此処で休みを取り雪渓を見に行くといっていた。今日は何度も雪渓があり上雪をはねてきれいな雪を食べてみた。明日又下痢するかも知れないが「これぞまさに自然の味」と満足した。私は濡れた衣類を干したり絵を描こうと思って断った。此処から見える山々が一番美しいといっていた。

雲も晴れ東の空に鋭く突き刺すように7120メートルの白いTRISHIL山が雄大な姿でそびえていた。日の暮れるまでパノラマに見えるヒマラヤの山々を描いていると、私達グループや今日初めて合流してきたグループも私の絵を見に来た。明日1日を有効に使って沢山の絵を描こう。今まで描こうと思っていたが出来なかった。



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