川崎廣進・工房カワサキの世界

〜The World Of Koushin Kawasaki & Koubou Kawasaki〜

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ヒマラヤトレッキングの思い出(その5)    2007年05月25日

5月7日今日はこのコースの最高地3600メートルのBEDANI KUNDで初めてのんびり休息できる日程になっている。

真夜中に子供の泣く声や寒さで咳をする声や話し声が周りのテントから多くさん聞こえた。病人が出なければいいのにな〜と心配で眠れぬ夜を過ごした。あの雨やアラレで大人でも身を切る様な寒さであった。

4時ごろトイレに起きたらよく晴れていてヒマラヤの空には満天の星が手に届く近さで輝いていた。ミューの鈴の音が夜中じゅう風に乗って何処からともなくガランゴロンと聞こえた。私は懐中電灯を持って周りの草むらを見回してみたがミューは何処にも見えなかった。

朝食の時間にはほとんどの人の顔が見え内心安堵した。昨日ほとんど一緒に歩いたミスタービピンの友人で同じ大学教授の奥さんの元気な顔を見て安心した。彼女の顔色が昨日は悪く空気のうすさや寒さとで重い足をひきずる様に最後部で歩いていた。きっと薬を飲んで早く寝たんだろう。

朝雪渓を見に行く人達が9時頃出発した。数人行かずにここに残っている様子だった。昨日の疲れでテントの中で寝ているんだろう。朝TRISHUL山を見ると厚い雲の中にその雄大な姿を隠していた。暖かな日差しの間にテントの上や紐に濡れ物を広げぶら下げて四方の山々をスケッチした。しかし私の期待と裏腹に7120メートルの山は顔を見せなかった。

2時ごろには皆帰ってくるはずだったがあいにく1時ごろから又曇ってきて小雨模様に変わった。又濡れて帰ってくるな?と思った。皆帰る頃には別のグループの先頭メンバーが到着した。薄いビニールガッパを着ていた。私も来年来るときはあの合羽なら軽いし上下が無くポケットの中でもねじ込めるし、あれを買ってこようと思っていた。

案の定濡れながら我々のメンバーも帰ってきた。別のグループの中にも子供達が何人も混ざっていた。今日はランチやディナーは賑わいだ。晴れた隙間に絵を描いているとたくさん見にきた。

全部乾かして休息の一日が終わり、最高地でのディナーはDOSA..UTTAPAM..ROTIとたくさん食べチャイも何杯も飲んだ。特にウタパンは美味しかった。このトレッキングでは今迄外国人の顔は誰も見なかった。周りの草花も描きリンドウ、タンポポ、野菊、と言っても日本のと少し違う。高山の植物は長い冬の雪の重みに耐え、それでも地面にはいつくばって咲いている。それらはきっと別の名前が付いていると思う。

翌5月8日9時に第4キャンプに向けて皆元気よく曇り空の中出発した。今日はいくら濡れてもいいぞ。今からは自分のペースで歩ける、どんな下りか分からないが気分が楽だった。よもぎやスミレやホタルブクロ、なるこゆり、おおきなの葉っぱの岩鏡、などにも出会った。雲は晴れ青空のなか気分良く最後部で歩いていた。ヒマラヤスギ樹林や山草は日頃煩雑な都会に住んでいる私の心を自然人に戻して癒してくれた。

途中出会った谷川は幅10メートルもあり淀むところも無く石ころの上を冷たい水が暴れるように流れ何処でも口を突っ込めた。まだ根の一部が生きており苔むした大木が川に横たわり茂った葉っぱの下影に岩魚か山女でもいないかと覗き込んだが何もいなかった。

何人かの同行の子供達も石を投げたり水遊びをしていた。私はキャンプ地までの道のりを聞いたら「あと一本道だ」というので一足先に立ち去った。一人の歩行は楽だった。歌を唄ってのんびり歩く山道は自分が異国にいる事すら忘れさせ、歩幅も思いにままに早めたり緩めたり、立ち止まったり出来た。

所々に点在する山岳の人々にも挨拶して歩いた。道は険しく下ったり、緩やかなスロープもあったり、狭くて間違えたんではないか?と思うような所もあった。4歳くらいの子供にも出会い私に両手を合わせてナマステとお辞儀した。その服装は何ヶ月も洗ってないようで裾がほころびていた。日本が近ければいくらでも持ってくること出来るのに、と思わぬお節介やき、その子との出会いは一層私のヒマラヤの印象を強くした。

一人旅の気楽さってこんなことなんだ。と思いながら歩いていると、天の奥から雷の音が小さく聞こえてきた。私はあまり油断をせずに歩を早めた。急に空模様が悪くなってきた。今青空だったのに、とつぶやいた。

だんだんあたりが暗くなり小さな雨が落ちてきた。ヒマラヤは雷が鳴っても降らない時もあった事を覚えていた。道端にひさしの長い家があったときそこで小雨がやむまで断って宿ろうか?と思ったが通り過ぎた。

300メートルも過ぎたところで本降りになり雨宿るところが無くさっきの家まで戻るか?と思ったら目前に道に大きく枝葉を広げた大木があった。その根に腰を下ろし、しゃがんで小さくなって宿っていたがだんだんアラレに変わってきた。運悪くそこは道が二股に分かれどっちもよく似た道幅に思い悩んだ。ここにいたら必ず皆歩いてくるわ、と一休みしていた。「あとは一本道だ」なんて誰が言った。

体が濡れだし頭痛がしてきた。スケッチブックを頭にかぶっていたら一人のミューを連れた青年が駆け足で前を通り過ぎ私は彼を止めてこのキャンプ地に行きたいがどっちの道か?と聞いた。彼は私に手招きして付いて来いといった。私はホッとして彼の後ろを付いて雨の中走った。

少し行って右側がけに彼とミューは下りてまた草むらの小道を走った。私は思わず彼にキャンプ地はこんな所ではないと伝えた。彼はマイハウスと言った。もうどこでも雨に当たらない所に行きたかった。

彼の家は10分も走ったら着いた。石と土で固め屋根には麦ワラの様な物で葺いてあった。お母さんに彼は事情を話している様子だった。年老いた女性の顔には長い年月この厳しいヒマラヤの山の奥地で生きてきた年輪が深いシワの中に伺えた。お母さんは両手を合わせてナマステと言って私の手をとって「なんて冷たい」と驚きながら両手で挟んで片方ずつ擦ってくれた。こわばしい暖かな手には親切がこもっていた。

そして薄暗い泥で作った囲炉裏のある部屋に私を入れて、ドングロスで作った毛布を私の足元に敷き此処に座れと言って焚き火の用意をした。今しがた絞った牛の乳を温めてチャイを飲ましてくれた。冷えてる体内の臓器に暖かなチャイは染み渡った。

服を脱いでこの火で乾かすように促され40センチ四方くらいの囲炉裏に私は上着をかけた。言葉などかけらも通じないヒマラヤの世界で見知らぬ異邦人の旅人の突然の訪問にもごく当たり前のように何驚く事も無く体と心一杯の親切をしてくださった。

私は「暗くならないうちに帰らないと皆が大騒ぎして探すから」と言って青年と出逢った所まで送ってもらうように頼んで挨拶した。お礼するにも財布もみなミューに預けてあり描いた絵を差し上げてその場を立ち去った。

青年と出逢った所の近くになるとざわざわ人の声が聞こえ我々の後続グループが迷った別の道を通るのが見え「お〜い」と言って手を振った。喜んだ彼と固く握手してお礼を言って別れた。



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